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| 「荷風」と名が付く本で出れば必ず買うことにしていますが、今回出された矢野誠一のエッセイ集『荷風の誤植』(2002.8.20発行)も早速購入。また新たな発見をしました。三ノ輪の浄閑寺の荷風碑に彫られている荷風の詩の「ミスプリント」についてです。有名な詩なのであえて全文引用します(テキストは岩波の最新版「荷風全集」)。
<引用> 震災
今の世のわかき人々/われにな問ひそ今の世と/また来る時代の芸術を。/われは明治の児ならずや。/その文化歴史となりて葬られし時/わが青春の夢もまた消えにけり。/團菊はしをれて楼痴は散りにき。/一葉は落ちて紅葉は枯れ/緑雨の声も亦絶えたりき。/圓朝も去れり紫蝶も去れり。/わが感激の泉とくに枯れたり。/われは明治の児なりけり。/或年大地俄にゆらめき/火は都を焼きぬ。/柳村先生既になく/鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。/江戸文化の名残煙となりぬ。/明治の文化また灰となりぬ。/今の世のわかき人々/我にな語りそ今の世と/また来む時代の芸術を。/くもりし眼鏡をふくとても/われ今何をか見得べき。/われは明治の児ならずや。/去りし明治の世の児ならずや。 <引用終わり>
問題は、この詩の中で「圓朝も去れり紫蝶も去れり」とある「紫蝶」とは誰のことかと言うことです。これについて『荷風の誤植』で矢野誠一は「紫蝶」と名乗る人で圓朝と並び称するような人は居なかった。たぶん幕末から明治にかけて人気を博した新内語り富士松「紫朝」の誤植だろうとされているわけですが、その発見の経緯が面白い。実に川本三郎氏がわざわざ矢野誠一に手紙で聞いてきたというのです。
小生がこの「ミスプリント」についてはじめて知ったのは、1999年8月の江戸東京博物館での川本三郎の講演でした。矢野誠一はこの随筆を99年11月に書かれていますのでほぼ同時期ですので、川本氏は矢野誠一に確かめられたあと講演でお話になったものと思われます。一大発見とのことで会場は大いに沸きました。
小生もそうか誰も気がつかなかったのかと面白がっておりましたが、ところがその後、古本屋で買った磯田光一の名著『永井荷風』(昭和54年初版)を読んでいますと、その中で引用されている荷風の「震災」の文章はちゃんと「紫朝」となっていることに気がつきました。あわてて旧版の岩波全集(昭和39年)を見るとそこでも「紫朝」となっているではありませんか。でも最新版の岩波全集では「紫蝶」となっている。なんだか狐につままれたような気分です。
こうなると俄然興味がわいてきますので、いつもは読むことのない「校異表」なぞを引っ張り出して調べますとこういうことのようです。この詩が最初に活字になったのは1946年筑摩書房から出た『来訪者』で、そこには「紫蝶」と誤記されていたものを、中央公論社から出された「荷風全集」(1959年)ではだれかがこのミスプリントに気がつき「紫朝」と直したことがわかりました。その後出版された1964年の岩波版「荷風全集」でも正しい「紫朝」となっています。磯田光一は中央公論社版か岩波版かのどちらかの荷風全集から引用したので当然「紫朝」となるわけです。ところが岩波が1994年に最新版の荷風全集を出すに当たって、厳密に荷風の自筆原稿を確かめるとそこには「紫蝶」と書いてあった。あくまでも原本に忠実に記載するという編集方針も元に、あえて間違った「紫蝶」と元に戻したと言うことのようです。
荷風碑が建ったのは昭和34年に荷風が死んですぐあとだったと思いますので石碑には『来訪者』に書いてあるままを彫ったものでしょう。間違いに気がついて直した中央公論社の編集者は凄いと感心いたしました。さらに荷風の書き間違いをあえて元に戻してそのまま印刷するという岩波の編集方針にも敬服いたしました。でもそのおかげでいろんな混乱が起きたことも事実のようです。
何を細かいことを騒いでいるのだとおっしゃるかも知れませんが、荷風ファンというものはこのようなどうでもいいような細かいことに一喜一憂して大はしゃぎする人々なのです。このあたりの愉しみに淫することができないようでは、なかなか荷風ファンとは言えませんぞ。でもご安心ください。荷風が好きな人はだんだんそうなるのです。この駄文に興味を持ってここまで読んでくださったあなたも、そろそろそうなりかけている・・・。
最近小生の手持ちCDを整理していると新内のCDが出てきました。蘭蝶という色男に花魁が惚れるという「蘭蝶」という新内です。荷風はきっと紫朝が語るこの新内「蘭蝶」が大好きだったので、つい紫朝を「紫蝶」と誤記してしまったのではないかというのが小生の推理ですが、はたしてどうでしょうか。
追記)ここまで書いてきて、念のために川本三郎『荷風好日』(2002年2月)を読むと、川本三郎は後日、紫朝は若いときに紫蝶と名乗っていた時期があったという新たな発見をしたとの追記がありました(森まゆみ『長生きも芸のうちー岡本文弥百歳』に書いたあった由)。こうなってくると中央公論社の編集者が余計なことをしたと言うことになる。わかったと思ったらまた迷路にはまりこんでしまいました。荷風をめぐる事実関係は複雑怪奇です。奥が深いのう。

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1 件のコメント:
実に興味深い文章です。
小生、浄閑寺すぐ近くの三ノ輪2丁目に戦前に生を受けましたが、「紫蝶」にこれだけ奥深い経緯があるとは知りませんでした。ご研究に多謝します。
長七郎(熊谷市在)
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